●大学祭の思い出
大学際の思い出
同窓会東京支部長 山下 正文
機械工学科一期卒業 日本アイビーエム(株)
第一回工大祭の思い出
開学の1968年北海道工業大学は生まれたばかりでまだまだ名が知られておらず大学があった手稲の町中でもあまり存在感のある状況ではありませんでした。大学といっても出来たばっかりなので先輩は当然いない一年生しかいない大学でした。強いて言えば学生の下宿やたまに飲みに行く焼き鳥屋の人ぐらいが知っていて他の人は手稲駅から毎朝一列になって黙々とすすきの生えている原野に向かって歩いてゆく一群の人々をみて大学はあるのは知っているが「はて何の学校でしょうか」くらいのものでした。当時の周辺の状況は手稲駅前周辺にはお店や人家がありましたが数分歩いた手稲駅の踏み切り(陸橋ではなく遮断機踏み切り)を越すとあとは人家も無く工場がひとつあったくらいであとはたまに車が通る道だけでした。一帯はすすきの生える原野で大学の姿など町からはみえませんでした。学生は皆近道をするために すすきのはえる原野のなかの獣道のような細い一本道を歩いて大学に向かっていましたから町の人から見ると学生たちはすすきの原野のなかに消えていっていたように見えていたのではないでしょか。そのような認知度の低い中 何か北海道工業大学ここにありと云うことをしようという事で“工大祭を”という事になりました。
同窓会東京支部長 山下 正文
機械工学科一期卒業 日本アイビーエム(株)
第一回工大祭の思い出
開学の1968年北海道工業大学は生まれたばかりでまだまだ名が知られておらず大学があった手稲の町中でもあまり存在感のある状況ではありませんでした。大学といっても出来たばっかりなので先輩は当然いない一年生しかいない大学でした。強いて言えば学生の下宿やたまに飲みに行く焼き鳥屋の人ぐらいが知っていて他の人は手稲駅から毎朝一列になって黙々とすすきの生えている原野に向かって歩いてゆく一群の人々をみて大学はあるのは知っているが「はて何の学校でしょうか」くらいのものでした。当時の周辺の状況は手稲駅前周辺にはお店や人家がありましたが数分歩いた手稲駅の踏み切り(陸橋ではなく遮断機踏み切り)を越すとあとは人家も無く工場がひとつあったくらいであとはたまに車が通る道だけでした。一帯はすすきの生える原野で大学の姿など町からはみえませんでした。学生は皆近道をするために すすきのはえる原野のなかの獣道のような細い一本道を歩いて大学に向かっていましたから町の人から見ると学生たちはすすきの原野のなかに消えていっていたように見えていたのではないでしょか。そのような認知度の低い中 何か北海道工業大学ここにありと云うことをしようという事で“工大祭を”という事になりました。