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2005.04.01 Friday

辛口

辛 口

機械工学科支部 事務長
河合 洋明

kawai

 機械支部が発足して以来悲願のホームページが何とか出来ました.設計,レイアウトなど多くの実務で土木OBの中澤さん(現在,本学情報技術課勤務)に多大なるご負担をおかけしました.僭越ですが支部を代表して心よりお礼申し上げます.しかし,このサイトに完成はありません.進化し続け,より意味あるものにしていくためには会員の皆さんからの発言が必要です.ご提案ご投稿をよろしくお願いいたします.
  機械支部のページの中には,このページ,すなわち「コラム」なるタイトルを用意しました.ここは,技術や研究情報,種々の意見や雑感,エッセイ,失敗談・成功談などをある程度のボリュームで,まとまった形で掲載しようという趣旨を持つ場所です.まず最初は,学科主任教授よりコメントをいただこうと考え,湊先生にご登場いただいた次第です.さて,この機会を逸するとチャンスがなくなってしまいそうですので,湊先生に引き続き,ページ企画者の特権として一筆語らせていただきたいと思います.

 
私と同窓会との関わりについて若干お話したいと思いますので,しばらくお付き合いください.非常に小さい内容ですが,少し重いところもあるかもしれません.まだ,諸先輩のご指導を必要とする身の上で,生意気な言い様ですが平にご勘弁ください.
 今からに二十数年前に遡りますが,縁あって母校に採用いただきました.当時は栗村先生がお一人で同窓会を切り盛りされていたように思います.したがって,同窓会の全ては名実ともに学内にあったわけです.しかも1研究室の中にです.発足して歴史も浅く,立ち上げた同窓生が学内にいるということは,いろいろな意味において好都合であったでしょうし,そうせざるを得なかったという事情もあったものと推察されます.就職間もない私は,ほぼ自動的にと言っていいかもしれませんが,同窓会活動に関与して(させられて)いくことになります.
 ここで,同窓会でさせていただいた業務について少しだけ述べさせていただきたと思います.最初に回ってきた仕事らしい仕事は,会報担当でした.担当の代表は,現在,建築学科主任教授の苫米地さんで,会報に名前を付けようということになりました.いろいろな名前を考えている中で,私も結構真剣に考えまして,手稲山をイメージし,「漢字は分からないですが,『せつれい』というのはどうでしょう」というようなことを申し上げました.これが好評であったため,その場で誌名として採用されました.ということで,命名者の一人であることを名乗っておかないと歴史に埋もれそうなのでここで言っておくことにします.それが今,賞のタイトルにまでなるなんて思いもしないことでした.ただし,思いつきで提案したため,後でしらべたら同人誌のようなものに同一のものがあったということを伺っていますが,これもご愛嬌でしょう.
  次は少しヘビーなものがやってきました.ここからは“NHKプロジェクトX”のような調子で読んでいただけるとチョッと雰囲気がでます.何代目かは定かではありませんが,その昔,執行部の三役が機械工学科の番になったとき,登坂さんが常任幹事長,白濱さんが会計,私が事務局長として決定され2年間を任されました.途中,登坂さんが北大に留学することになり,白濱さんが幹事長と会計を兼務ということで,異例の二人体制で運営することになってしまいました.当時は同窓会業務電算化の黎明期で事務局には唯の箱状態のコンピュータとプリンターなどが鎮座していました.もちろんWindowsなどではありません.コマンド打ちです.これを生かさなければなりませんでした.事務局長として心がけたことは,事務作業内容のオープン化,すなわち誰が業務担当になってもすぐ分かるという体制作りで,これと上述のコンピュータを絡めて作業を進めていきました.とにかく定形の資料が少なかったので,人の話を聞いたり,過去の資料を探したりで,経験は自分で作れというような状態に近かったと思います.実行していったこととして,例えば,今までの行事実績を精査してスケジュール管理用のカレンダーフォーマットの作成,行事報告・予定の内容を含んだ決算や予算の細目資料などをほぼ完成させました.実は,現在同窓会の幹事会等で使用されている資料の基本的なフォーマットが完成したのはこの時のことなのです.当時,事務局では二人の女性パート事務員を雇っておりましたが,彼女たちがコンピュータを駆使して,などということは望めませんでしたので,夜になると一人同窓会事務局に籠もり,作業をするという日々が続きました.この原動力となったのは,前述の通り,事務局業務に誰もが入って行き易い環境を作り,それが現場の負担軽減に繋がると確信したからです.今となっては幼稚な作業だったかもしれませんが,ある程度は完成できたと思っています.ただし,そのときは卒論・研究も含めて相当犠牲にしたことも確かで,正直,かなりしんどい思いもしました.半ば開き直っていたところもあったように思います.
  かつて,学内の同窓生は「本務は何か?」と問われた時代があります.このような中でゲリラ的に業務を遂行していたというと言い過ぎかもしれませんが,ある種緊張感を持っていたと思います.その後,時代も人の心も変わり,同窓会の重要性が評価され,業務も認知されるに至っております.ここで,皆さんに是非理解しておいていただきたいのは,学内の人間だから楽にやれるなんてことは1つも無いということです.同窓会に関して何かを任されるということは,誰がやっても同じくらい何かを犠牲にする可能性があるということです.
 私は,当時も現在も北海道工業大学の同窓生であるということに関しては,強く誇りに思っておりますが,同窓会幹事に名を連ねて以来,なぜ大学に勤務したからといって同窓会の実務に関与しなければならないのか,という点に関しては一抹の疑問を持ちつつ,また,その答えを得ることなく今まで来てしまいました.所属学会で会員数減少などの問題を議論したときに「会の具体的メリットはどうも明確に認識できないのだけれど,会自体は無いと困る」ということが話されたことがあります.同窓会というものもこれに良く似ているような気がします.もっと言えば「具体的メリット,特に実体を伴ったもののみを過度に期待してはいけないのではないか」とも思います.かつては「運命共同体」という言葉もありました.籍を置いたことのある者達のステータスを確保し,拠り所とするという思想の元に会員が集うということがポイントなのではないでしょうか.私の被害妄想かもしれませんが,その会務を学内に残留した同窓生が引き受けるというボランティア的法則は無いと思います.実際,私も業務を担当しながら,「私たちが業務から手を引いて潰れるようなら所詮そういう会だし,それでよいのではないですか」というような発言もしましたし,そう思ってやってきました.ちょっと過激派ですね〜.しかし,一方では「潰すわけにはいかない」という同窓生としての「善なる心」も現われ,その葛藤の中で,どちらかというと後者が強いからやってこれたのではないかと思います.
 冬に入り街は白くなっていたころだったように記憶しておりますが,私立学校を束ねる組織の集いが札幌であり,私は出席することを命じられたことがあります.東京の本部から来られた偉い方が壇上に上りました.開口一番,「これだから北海道はだめなんです!講演者に対して失礼です!」というようなことを言われました.最初は何のことかさっぱり分かりませんでした.私も含めてほぼ全員がオーバーやジャンパーを着込んで,ぬくぬくと着席していたのです.会場は札幌市民会館でしたから暖房もあり環境的にも問題が無いのにです.その後,一枚脱ぐように言われました.一瞬,その強い言い方に反感を覚えましたが,クールダウンして考えると,正におっしゃるとおりで,一発,戒めのパンチをいただいたような気がしたものです.寒い土地だから着て座ってもいいんだという一種の甘えが暗黙のうちに会場や人々を覆っていたのです.私事ながら,このことは今でも心に刻み,気を付けるようにしております.
 さて,同窓会の話に戻りますが,今は同窓会が発足した時とは随分状況が違います.Fax,携帯,電子メール,インターネットなど情報伝達手段の選択肢も機能も格段に発展しています.事務局は固定して学内に無いと業務上不都合があるのは確かです.しかし,行事計画・報告,予算・決算,新事業の提案などなど,学内の者でなければできないことなんてあるのでしょうか?あるのだとしたら,特定の同窓生が牛耳って(というよりは,何とか支えて),最も多数であるはずの一般企業人の同窓生が参画できない(あるいは,しない),活動レベルの本質が問われる会になってしまうのではないでしょうか?簡単なことですが,要はやる気の問題ではないかと思います.学内の人間は情報提供者あるいはアドバイザー的な役割を担い,本務は外部の同窓生が精力的に取り仕切るというのが1つの理想形というのは言い過ぎでしょうか.
 同窓ということに強い情熱とプライドをお持ちの方が多くいらっしゃることは,お顔が浮かぶほど十分に承知しております.そういった方々からはお叱りを受けるかもしれません.しかし,もっと新たな,もっと多数の,同窓会活動に積極的に物申していただけるような方々の出現を願ってやみません.
 以上,勝手なことばかり申し上げ失礼いたしました.
 でも,HPが立ち上がってとりあえずほっと一息の春です.

(平成17年4月1日掲載)