北防波堤

小樽港の北防波堤

 

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高架桟橋の斜路

今も残る高架桟橋の斜路

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

広井勇胸像

運河公園に建つ博士の胸像

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

斜塊ブロック

斜塊ブロック
(海面近くの黒い部分)

 

 

 

 

 

 

百年試験の供試体

百年試験で用いられている供試体

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

銘版

胸像横に置かれた銘版

- 土木は面白い Vol.1 -

小樽港北防波堤と広井勇博士

広井勇博士という人を知っていますか?

 

そして北海道の小樽市という街を知っていますか?

 

その小樽の山の上の展望台から港を見ると、小樽の港を抱きかかえるように北側の手宮と南側の平磯岬のそれぞれから防波堤(ぼうはてい)が伸びています。その北側から伸びる北防波堤を日本初のコンクリート製外洋防波堤として建設したのが広井勇博士です。

 

当時、日本の港湾建設は失敗続きでした。初代築港(ちっこう)事務所長だった広井勇博士は防波堤に当たる波の強さを測定し、防波堤に使うコンクリートの性能を試験し、日本初のコンクリート製の外洋防波堤を建設しました。小樽港の成功によって日本の近代港湾の整備が進みました。そのことから、小樽港の防波堤,特に北防波堤は重要文化財と同じくらいの価値を持つと評価されています。

 

時代背景

広井勇博士が生きた時代19世紀は産業で発展した時代です。世界中に鉄道と船で物が運ばれ、世界経済が大きく成長しました。鉄道と港は経済の成長のための一番基礎になる施設だったのです。

明治の日本でも同様で、世界中の大きな国と並ぶ国家の建設を目指す明治政府は1880年(明治13年)に北海道の炭鉱から石炭を運ぶために手宮-札幌間に日本で3番目の鉄道を敷設しました。新橋-横浜間と神戸-大阪間に次ぐものです。後の1882年(明治15年)には札幌から岩見沢へ伸び、今の三笠(みかさ)市(幌内(ほろない)炭鉱)まで延長されます。

その石炭を運び出すために明治42年には小樽港に高架桟橋(こうかさんばし)と呼ばれる巨大な木で出来た桟橋が作られました。幅22m、高さ19m、全長392m(海上部289m)というとても木で出来ているとは信じられないような大きさで、幌加内(ほろかいな)から運ばれた石炭を積んだ貨物列車が行き来していました。

小樽は開拓使(かいたくし)による開発が進んでいた札幌に近く、北海道に入る物資の荷揚げ地としてもその役割は高まっていました。すでに「特別輸出港」として指定されていましたが、1899年(明治32年)には「国際貿易港」の指定を受けて完全な貿易港となります。これによって小樽は本格的な発展を始めました。

明治の後期から大正になると、小樽港は北海道の北半分に加えて十勝地方の物資が集まってくるようになります。石炭や米に加えて、豆、雑穀、澱粉などの穀物が集められ、東アジア沿岸を中心にヨーロッパにまでも物資を送り出します。

外国貿易や物流の中心のひとつとして発展した小樽の運河沿いには多くの石造りの倉庫が並び、その近くには三菱や三井などの大銀行の支店が並びます。その頃の小樽は「北のウォール街」とよばれて世界中の経済に影響を与えるほどの勢いを誇っていました。

 

広井勇博士と小樽

 広井勇博士は土佐(現在の高知県)の出身で、1887年(明治10年)に開校2年目の札幌農学校(現北海道大学)に2期生として入学しました。当時16歳です。

その頃の日本はというと西南戦争が起こった頃です。札幌農学校の同期には、内村鑑三、新渡戸稲造、宮部金吾など、後に偉人として伝えられている人達が並んでいます。クラーク博士は明治10年4月に帰国していますので、広井勇博士達は直接クラーク博士に会うことはなかったと思われますが、クラーク博士の作った雰囲気が強く残っていた時期でしょうし、その影響は大きかったことでしょう。

広井勇博士は札幌農学校を卒業した後、開拓使、次いで工部省(こうぶしょう)へと移ります。その後米国とドイツに留学し、6年間を海外で過ごし、本格的な産業開発の時代に入っていた米国でいくつもの河川や橋梁の工事にかかわりました。

後に橋梁の構造計算に関する英文著書も出版していますが、これは当時世界最高の橋梁(きょうりょう)技術専門書と称賛され、多くの米国人技術者がバイブルとしていました。博士は当時27歳でした。

明治22年(1889年)に帰国した広井勇博士は、札幌農学校土木工学科教授に就任して教育者としての人生をスタートしますが、産業開発が進む北海道は広井勇博士の土木技術を必要としていました。その時、北海道庁で重大な課題となっていたのが小樽港の建設工事です。

広井勇博士は、明治26年(1893年)、札幌農学校教授のまま北海道庁技師および小樽築港事務所長を兼任し、小樽港の築港(北防波堤第1期工事、1897−1908)に心血を注ぐことになります。

広井勇博士がまず取り組んだのはコンクリートの開発でした。コンクリートは当時国産が始まったばかりで、それまで横浜港や佐世保港などで採用されたものは亀裂事故が絶えませんでした。そればかりか海外の一部の防波堤では崩壊したものもあるほどでした。外海の荒波に耐えるコンクリートブロックを製作するために広井勇博士が考えついたのは、セメントに北海道で豊富に手に入る火山灰を混入して強度を増す方法でした。

これによってそれまでの2倍、24トンのブロックの製造が可能になりました。次いで広井勇博士は、このブロックを71度34分に傾斜させ、そのまま並置する「斜塊ブロック」という独特な工法を採用します。外洋の波の力を独自に計算して工法を編み出す、広井勇博士の独創性と技術の真価が発揮された築港でした。こうして明治41年(1908年)に幅7.3m,水深14.4m,全長1,289mの北防波堤が完成します。

これは日本初のコンクリート製長大防波堤であり、100年の荒波に耐えて今も当時のまま使われています。

2000年には土木学会から「日本土木史の驚異」と称賛されて、「土木学会選奨土木遺産」として選ばれました。

 

百年試験

 北海道開発局の小樽港湾建設事務所に昔の建設写真やコンクリートの試験器などが展示されています。それらを使って広井勇博士は防波堤に使うコンクリートの試供体を六万個以上つくりました。その経年変化を確認する耐久性試験は現在でも継続されており、「百年試験」と呼ばれて世界中のコンクリート技術者から注目を集めています。

100年目はもう過ぎましたが、まだかなりの量が残っており、これからも継続して試験が行われるということです。このように長い時間の経年変化までも確かめようということには、小樽港の安全を長く検証してほしいという広井勇博士の願いが込められています。そして、その土木構造物は一世紀以上を経た今も小樽の港を守っています。

 

広井勇博士と土木工学

憲法十二条に、「・・・公共の福祉のためには、(国民は)これを利用する責任も負っている」というくだりがあります。昨今、公共事業が真に国民に役立っているのかが問われていますが、市民のためにある土木構造物や施設の価値が一般の話題に上ることは多くありません。百年の荒波に耐えて人々の生活や安全を保ち続けている小樽北防波堤には、後世を見据えた土木技術者の責任と使命感がありました。広井勇博士はこう言っています。

「もし工学が唯に人生を煩雑(はんざつ)にするのみのものならば、何の意味もない。工学によって数日を要するところを数時間の距離に短縮し、一日の労役を一時間にとどめ、人をして静かに人生を思惟(しい)せしめ、反省せしめ、神に帰るの余裕を与えないものであるならば、われらの工学はまったく意味を見出すことはできない」、博士の考える工学とは福祉そのものなのです。

1928年(昭和3年)、広井勇博士の告別式で生涯の友・内村鑑三は朗読しました。
「・・・広井君ありて明治大正の日本は清き正しきエンジニアを持ちました。日本はまだ全体に腐敗せりということは出来ません。(中略)君の工学は君自身を益せずして国家と社会と民衆を永久に益したのであります」そして「この質素なる家は、大築港を施されし大土木学者の住家とは思われません」と。

広井勇博士は、幾多の港湾に関わりながら、東京帝国大学工科大学教授として20年間勤めました。夏目漱石に優れた門下生が多かったように広井勇博士も多くの学生に薫陶(くんとう)を与え、国内外の現場へと送り出しました。「文明の基礎づくりに努力すべき」という広井勇博士の教えもまた同様に後世の多くの技術者に受け継がれています。

広井勇博士の胸像は、博士が他界した翌年の昭和4年、小樽市民や博士の影響を受けた多くの人々によって小樽公園に建立され、いまは港がよく見渡せるようにと北運河の運河公園に移設されました。銘板に履歴がこう記されています。

「一八六二(文久2)年高知生まれ。札幌農学校第二期生。アメリカ、ドイツで橋梁工学・土木工学を学び、帰国後、札幌農学校教授。のち北海道の港湾改良と築港工事に携わる。彼の指導による小樽築港第一期工事は、日本の近代港湾建設技術を確立し、世界に高く評価された。」